
昔々、旧諏訪村の上真砂地方を愛子の里(まなこのさと)と呼び、そこを流れている川を「涙川」と言いました。
そこに伝わる哀話です。
ある日、平家が壇ノ浦の戦い(だんのうらのたたかい)に敗れて滅亡しました。
安徳天皇をはじめ、いろいろな人が死ぬ中、落ちのびた一族は散り散りになり、
全国各地で平家の落ち人部落を作って、人目を忍んでひっそりと暮らしていました。
その平家の一族に頼盛という人がいました。越後へ落ちのびて山中に住みついたといううわさに、
奥方の「愛子」は天を慕って、はるばる越後へやってきました。

愛子には、生まれて間もない子供がありました。
母子が親不知の難所にさしかかった時、海が荒れ、大波が立って、愛子が抱いていた子供は波にさらわれてしまいました。
夫に生き別れ、また子供に死に別れた愛子は、悲しみの涙にくれましたが、ようやく元気を出して、
真砂までたどり着きました。そして、わが子を偲んで詠んだのが、
風そよぐ 愛子の里の 糸柳 乱れて物を ひ(い)けるかな
涙川 その水上を たづぬれば ひるこの森の 雫なりけり
という歌です。
2重の悲しみで、今の飯田川のこと を涙川と言ったそうです。愛子をまつって、上真砂のお寺に板碑が作られたそうです。
いろいろな場所にたくさんの板碑(※)があるみたいです。
※ 板碑:直江津や安塚など、戦いが激しかった土地では、板碑が多く見られるという。
勝名寺(上真砂の十字路)の板碑は、ぎょかい岩で高さ45センチ。頂点がかさのように突き出し、2本線が掘られている。
昭和30年ごろのある日、小林善治さんと服部まさのぶさんと服部さだじさんの馬が、ばたばたと死んでしまいました。
そこで鶴町の人たちは、観音さんを造ってもらった方がいいんじゃないかと言って、
地域の方たちに頼んで馬頭観音を造ってもらったそうです。
それからは、そんなに馬は死ななくなったそうです。