地域医療の先駆者

川室病院の真実

川室病院は、平成10年に創立120周年を迎えました。 それとともに、ぼくたちの活動は始まりました。 ある日、ぼくたちは、北新保の神社を調べていました。その時ぼくたちは、あるものを発見しました。 そのあるものとは、川室道一さんの石碑でした。 それからぼくたちは、川室病院のことを調べるようになりました。


川室道一



諏訪地区にある唯一の病院、それが川室病院である。その川室病院の創設者が川室道一である。 道一は幼少から学問を好んだ。最初は、高田の仲町で、祖父の代からの魚等の回送問屋をしていた。しかし、事業に失敗して、新保に引っ越し農業を営んでいた。 ある日、「このまま百姓で終わりたくない。世のため人のために尽くしたい。」との志を抱き、意を決して高田藩医鈴木道順に師事、医学の道に進んだ。 明治6年には横浜に出て、米人医師・J.C.ヘボンに西洋医学を学び、さらに東京に出て、佐藤尚史・井上達也について眼科を専攻した。 明治11年沃野坦々(よくやたんたん)なる郷里に帰り、川室眼科医院を開業した。 その医術と仁術の秀たることに、名声大いに上がり、「ナスガラ新保の眼の医者」として門前列をなし、県内はもちろん、隣県までその名を馳せた。 その後も道一は、世のため人のために尽くし、大正元年10月25日病没。享年71歳であった。


川室貫治について

川室貫治は眼科医であった。東京帝国大学医学部(現在の東京大学医学部)を出て三国病院の院長をしていた。昔は軍医で満州に7年行っていた。 高田市内の病院は、古い歴史を持つ高田病院と知命堂病院の外に師団入城(明治41年)と同時に衛戊病院(陸軍の将兵のみを対象にした病院のこと)が発足し、大正9年には高田脳病院が創設された。 高田脳病院は現在の西城病院で、中殿町(西城町2丁目7番地)に病舎を建築し、大正9年11月28日に病舎の落成式と開院式を行った。諏訪村北新保の医師・川室貫治が小島彦造、戸田磊之輔(らいのすけ)、合田進、福田喜十郎と図り、資本金5万円で設立し、最初は合資会社高田病院と称した。当時県下には、新潟にこの種の病院(精神病院)があったが、全国では無い府県が多かったので、開業以来患者がとても多かった。翌 大正10年11月17日、国立代用病院に指定され、同12年12月には7万5千円に増資した。

諏訪に電気をもたらした貫治

諏訪に、電気を通すか通さないかで、賛成派と反対派がいた。 賛成派の理由は生産が増える。 反対派の理由は農民が道楽になる、火災の恐れがあるから。 しかし、大正8年、苦労の末、貫治は諏訪に電気を引いた。

川室道隆先生について

精神科医で、昭和15年大学を卒業し中国戦争で軍隊に入った。その後、昭和37年に私立常心荘を川室病院にし、患者が多く入れるようになった。 諏訪に緞帳(どんちょう)を寄付してくれた。

いなほ園について



特別養護老人ホーム。 ここは、65才以上で、身体又は精神上の著しい障害により、常に介護を必要とし、居宅介護が困難な人のための入居施設。

川室優先生について

昭和45年東京慈恵会医科大学を卒業し、精神科医となった。昭和63年には川室病院の院長となり、平成7年には同病院の理事長となった。同じ年に西城病院の院長となり、翌年理事長へと就任した。 現在は、 高田西城病院 理事長 川室病院理事長 医療取締代表 上越つくしの里医療福祉協会 理事長 上越老人福祉協会 理事長 と理事長を4つもしている。また、公演を頼まれたり、東京へ行き勉強したりと忙しい日々を送っている。

上越つくしの里(つくし工房)

精神障害者施設
作業指導や生活訓練を行い、社会的自立を促進させる施設。
つくし工房はおもにパンを作っています。つくし工房に勤めている人の中には、川室病院の精神病患者で、社会復帰を目指して働いている人もいます。


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